
こんにちはー!ぼらです!(boralog_0310)
今回の一時帰国があまりにも充実していてドイツに帰るのが本当に本当に辛いぼらです。みなさまお元気にお過ごしでしょうか?
さて、私ぼら、日本は東北の超田舎で生まれ育ちました。18年間ド田舎に住み、4年間日本の都会に住み、10年間ドイツに住んでみて感じることをシェアしたいなと思ったのでこの記事を書いてみることにします。
有益な情報はないかもしれませんが、これから海外生活をしてみたい人、田舎から都会に行ってみたい人など、さまざまな人の観点から見ることができる記事かなと思うので、よかったらよんでみてくださいまし♪
日本は東北、田んぼのど真ん中で生まれ育った私

18年間東北の広い台地の元育ち、多少の偏見はあるものの、のびのびと育ちました。
・常に憧れは東京
・自然の価値を見出せない
・モノがないことは価値がない
・絶対に外国に行く
・方言は恥ずかしいもの
・お洒落しないなんてあり得ない
・友達がいないことは恥ずかしいこと
常に憧れは東京
私は典型的な田舎っこで、テレビに映る東京に壮大な憧れを抱いていました。原宿にあるクレープ屋さんはうちの地元とは何が違うんだろうか、東京を歩いている人はどうしてみんなオシャレなんだろうかと、いつも不思議に思っていました。
自然の価値を見出せない
私は大都会東京に憧れていたので、雄大な大地、美しい自然にはこれっぽっちも価値を感じませんでした。
季節ごとに花が咲くのは美しいなと思うくらいで、自然がたくさんだと虫がいっぱいで嫌だなと思ってしまうほどでした。
モノがないことには価値がない
私の地元は私がいた頃は少し今より不便でした。おしゃれな服屋さんはないし(これは今もないけど)、マックやクレープ屋さんなんてものは一切なし。
生活に必要なスーパーや薬局があるくらいで、美味しそうなパン屋さんや可愛いケーキ屋さんなどもなし。
18歳まではどうしてこんな田舎に生まれてしまったのだろうと残念に思うことも多々ありました。
絶対に外国に行く
私は小学校4年生のときにテレビで英語の通訳さんのお仕事を見て、「あ!私もこれになる!」と突然思ったのです。
そこから英語に興味を持ち、中学校では交流校に遊びに行って、高校でもドイツやアメリカなど、学校の交流校に遊びに行くチャンスをつかみ、「外国に行くことこそ我が人生!」というレベルでチャンスがあればここぞとばかりに行きました。
その経験あって海外生活というか海外の文化が自分にとって心地のいいものだと感じ始め、将来的に絶対に海外に住もうとどこかで思っていたのかもしれません。
方言は恥ずかしい
私は東北の超ド田舎出身なので、まー訛ってるんですよ、ええ。いつもの勢いで訛を発揮すると、東京の人は理解できないレベルです。
大学に入学してからは訛っていることが恥ずかしくて標準語を使うようになりました。大学で「えー?訛ってる子って可愛いじゃん!」と言われたこともありましたが私は知っていたのです。。
男の子が意味する「訛っている」は九州や京都などの可愛らしい方言であって、東北のド田舎の「だがらいったべしたらや!」なんて濁点が多い言語は聞きたくないことを。
お洒落しないなんてあり得ない
これは今でも不思議なのですが、ドイツに住み始めるまで「お洒落してこそ人生だ!」と思っていたので、お洒落に興味がないという人が理解不能でした。
もちろんファッションが好きな人も興味がない人も世の中にはいるわけで、「お洒落している=魅力的」という価値観を他人に押し付ける権利は私にはなかったんですよね。
友達がいないことは恥ずかしい
今でこそお1人様なんちゃらという謳い文句が増えましたが、20年前くらいの日本って「友達がいないこと=悪いこと、寂しい人」という感じありませんでした?(私だけ?)
私はもれなくそう思っていたので、大学に入学するときに通常の自分よりもいつも以上に張り切ってテンションを上げ、無理やりでも友達を作ろうとしました。
日本の都会に住んだときの私
・東京に無いものはない
・高いビルの間をハイヒールで歩くことこそ正義
・素敵なパートナーがいることこそ有意義
・東京は寂しい
東京に無いものはない
東京はすごい。東京にはなんでもある。
夢も、希望も、愛も、お店も、ファッションも、欲望も、絶望も、世界中のものが手に入る場所。
上京した私は満員電車に乗るとそんなことを考えていました。
高いビルの間をハイヒールで歩くことこそ正義
私は東京にいる女性は全員ハイヒールを履いてカツカツ歩いているものだと信じて疑わなかったので、大学に行くときも、雨の日も風の日もできるだけハイヒールで歩くという生活でした。
大学を卒業したら自分は絶対に高層ビルの間をカッコいいCHANELのハイヒールを履いて歩けるような仕事をするんだと思っていたのです。
素敵なパートナーがいることこそ有意義
私はいわゆる「いつも恋人がいる人」でした。中学三年せいから高校卒業まで付き合った彼と別れてから半年間フラフラしていたことはあったものの、自分に好意がある人で自分も特別に嫌じゃない人であればとりあえず付き合ってみるタイプの人間だったので、いつも恋人はいました。
しかしそれは潜在意識に「恋人がいることこそ素晴らしい人生だ」というつまらない価値観をどこかで自分に植え付けてしまったからかもしれません。
東京は寂しい
東京には全てがあります。無いものはないでしょう。便利なモノで溢れている場所に行けばたくさんの人がいます。でも私が知っている人は一人もいないし、私のことを知っている人も一人もいない。
大学生のときにそのことに気づいた瞬間、東京は私にとってとてつもなく寂しい場所に思えたのです。
ドイツに住んでからの私
・時の流れがゆっくり
・一人でいることは悪いことじゃない
・いろんなことがなんでもどうでもいい
・幸せについて何度も考える
・田舎の良さをひしひしと感じる
・自然の美しさに圧倒される
・モノがないことには価値がある
時の流れがゆっくり
日本にいたときは、スケジュール帳に空きがあると不安でたまらなかったので、なんでもいいから予定をバンバン入れていた私。しかしドイツではそうもいきません。
仲いい友達もいない、大それた仕事もない、話せる家族もいない、一日のなかで「しなくてはいけないこと」が一切なくなったのです。
そうなると一日が長い長い。とくにドイツのサマータイムが始まると明るい時間が長いので、日本にいたときの24時間よりも遥かに長い24時間を過ごしていたような気がします。
ドイツは日曜日にお店が閉まり、日本のようなエンターテイメントもない。そうなると本当に同じ一週間でもドイツではすごくゆっくり進んでいるように感じました。
一人でいることは悪いことじゃない
日本にいたときは「友達がいないことは恥ずかしいことだ」くらいに思っていた私ですが、友達は無理やり作るもんじゃないんですよね。一人が好きな人もいて、一人でいたい人もいるんですよね。
私は大学入学時に無理やり友達を作ったせいで、後々やはり合わなくて一人になることもありました。しかし日本にいる間は自分が悪いように感じていたのですが、ドイツに来てからはそれも気にならなくなりました。

だって友達できないんだもん!仕方なくない?
と開き直っております。
いろんなことがなんでもいい
ドイツについて一番思うことは、「いろんなことがどうでもいい」ってこと。
男性が男性を好きでも、女性が女性を好きでも、年が離れた人が好きでも、国籍がどこの人と付き合おうとも、タトゥーが入っていても、障害があろうとも、社会におけるいろーんなことは、私がどうこういうことではないということ。
私の両親はあまり身近な存在に同性カップルもいないしタトゥーが入っている人もいないので、どうしてもそういう人に対してちょっと距離があります。
私は例えば子供たちが同性のパートナーと結婚しても1ミリも問題ありません。

お互い好きなら何が問題なわけ?
という考え方だし、ドイツでの様々な人との出会いを通して、いろんなことは気にしないに限るなということを学びました。
幸せについて何度も考える
ドイツにいると時間がないようで日本にいるときよりも遥かにあるんですよね。だから何度も何度も幸せについて考えてます。
「私にとっての幸せ」「彼にとっての幸せ」「子供たちにとっての幸せ」
幸せについて考えることってすごく楽しいようで、難しい気もするんです。自分にとっての幸せってなんだろう?と考えても、次考えるときはその意見が変わってることもありますよね。
でもそれでいいんだなって思うんです。今日という日は二度とこないのだから、自分の意見も変化して当たり前。昨日の私と明日の私は同じようで少し違うかもしれないのだから、当たり前。
だからこそ何度も何度も幸せについて考えて、死ぬときに「幸せだったな」と思えれたらいいなと思うのです。
自然の美しさに圧倒される
ドイツでも田舎に住んでいる私。年齢を重ねたこともあるかもしれませんが、自然の美しさに圧倒されるようになりました。とくに今回の一時帰国は春というベストシーズンに帰ってくることができたので、さまざまなお花が咲くところを見ることができました。
桜はもちろんですが、スイセンや芝桜、たんぽぽやツツジなど本当にカラフルで見てるだけで癒されます。さらには山の緑色の種類の多さに感動したり、空の青さに心震えたりと自分のなかの自然エネルギーを貯める場所がすごく敏感になったように思うのです。
モノがないことには価値がある
日本にいた頃はたくさんのモノがあってこそ価値があると思っていた私ですが、今は真逆。
モノがないことには価値がありますね。
私の地元にはお洒落な洋服屋さんはないし、インスタ映えするスポットもない。
デートに行けそうなカフェもほとんどないし、お洒落なバーもない。
でも私の地元には無限大に緑があって、川があって、壮大な空があって、その地を大切に思う人が生きている。これがどんなに尊いことであるか分かるまでに32年もかかりました。
モノがないからこそ美しい自然が美しまま保たれて、それを大切にしようという人々がいる。
それはつまり未来を大切にすることではないでしょうか。
モノがないからこそ人と人との繋がりが大切になり、不便だからこそ他人との距離感や熱量を遠ざけることができずに「完全なる孤独」にはなれない。
東京は便利すぎて簡単に孤独になることができる。だからこそ寂しい。
モノがないことに価値があると気づくと、いろんなことに感謝できるようになるなーなんて思います。

今回の記事は私の心の中を知ってほしくて、徒然なるままに書いてみました。
ではではー♪
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