こんにちはー!ぼらです!(boralog_0310)
2年数ヶ月ぶりの日本への一時帰国からドイツに戻ってきて、一週間が経過しました。最初の2日間は20時半から7時まで寝るという赤ちゃん並の睡眠欲だったのですが、体がだんだん慣れてきてやっとこさ子供が寝てからブログを書くという行動ができるようになりました。
この一週間の間今回の日本滞在についていろいろと頭の中でぐるぐるしていたので、文字に起こして気持ちの整理をしてみようと思います。
一時帰国していない2年間を振り返る
今回の一時帰国は約2ヶ月と長めに滞在することができたのですが、その中で自分が少しずつ前向きな気持ちになっていることに気が付きました。まずは日本に帰国していないこの2年間自分に起こったことを整理します。
新型コロナウイルス
今回の一時帰国の前に日本に帰ったのは、2020年1月、中国の武漢から羽田にチャーター機が到着するという日に入れ違いでドイツに戻ってきました。ドイツに戻ってくると、あれよあれよという間にパンデミックが宣言され、ドイツは比較的早めにロックダウンに。
このとき私は妊娠中期で、コロナ禍での出産レポが少ないなか、自分はどうなるのか非常に心配でした。夫は飲食業のため、ロックダウン中はもれなく仕事をすることができず、収入がいつもの6割に。
今日食べるものの心配は無いものの、やはり先が見えない状況が続いて精神的に不安だったように思います。
妊娠糖尿病になった
既に何度もブログでも登場していますが、次男を妊娠中に妊娠糖尿病になりました。これは当時の私にとってすごく、ものすんごくストレスだったのです。
自分の気持ちも体も思い通りにならないのに、唯一のストレス解消法だった食べることまで制限されて、もう本当に撃沈でした。(食べてたけれども)
「妊娠糖尿病になったのは自分のせいだ」「赤ちゃんに何かあったらどうしよう」と自分が妊娠糖尿病だという事実があるだけで、あーでもないこーでもないと夜な夜な私を不安にさせたのです。
大好きな叔母が亡くなった
パンデミックになってすぐに私の大好きな叔母が亡くなりました。癌になって数年、闘病し続けたけれど、どんどん弱くなっていき、治療が痛くて苦しくて辛くて、「もうやめたい」とおじちゃんに言ったんだそうです。
叔母は本当に本当に優しくて、私の実家から車で一時間半くらいの場所に住んでいたのですが、叔母が遊びの来てくれるときはミスドを買ってきてくれたり、ユニクロの可愛いジャケットを買ってきてくれたり、田んぼのど真ん中で育ったじゃがいもの私にとっては「都会の可愛い優しい叔母」だったのです。
治療をやめて緩和ケア病棟に移動したと聞いて、私はてっきり次男を出産することまでは大丈夫だろうと思って父に言うと、「それまで頑張れればいいけれど」という返事。
そしてその話をした翌日、緩和ケア病棟に移動してわずか3日で叔母は天国に行ってしまいました。
私がその話を聞いたときはドイツ時間の午前中で、すごく空が青い日でした。父からのLINEを読んで泣き崩れ、空を見上げながら「今まで頑張ってくれてありがとう。最後に会えなくてごめんね。本当に本当に大好きだよ」としばらくお祈りしました。
次男出産
ロックダウン中に生まれればいいなと思っていたのですが、見事に解除されて数日後に出産日になり、義母を召喚。次男の出産が不安というよりも、長男と3日間も離れることが心配で心配でたまりませんでした。
当時の私はまだそこまで義母のことを心から信頼していないというか、言われて嫌だった事に執着していて、気持ちよく「長男をお願いします!」と言えなかったんですよね。でも私の心配はよそに、長男はばばと楽しく過ごせたようです。
しかしやはり心の中では自分の母に来てもらえないことが不安で不安でたまりませんでした。
甲状腺機能低下症になった
次男を出産して3ヶ月後に血糖値が元に戻ったか検査したのですが、見事に血糖値は爆上がり。あー、まじか、糖尿病か。。と思っていたところ、そうではなく、甲状腺機能低下症との診断が下り、毎朝薬を飲む生活が始まりました。
体に異変は何もないですし、薬を飲んでいればなんともないので害はないのですが、一生飲み続けなくてはいけないと思うとちょっと鬱陶しいです。
長男保育園スタート
そして次男が生後5ヵ月のときに長男の保育園(Kita)がスタート。いやぁもう最初の2ヶ月間は大変で、もう記憶がありません。覚えているのはあんなに寝る子だった長男が夜1時間ごとに起きるようになって、加えて次男の授乳もあり、生きる屍だったなということだけです。
大好きな祖母が亡くなった
そして2021年の春、今度は母方の祖母が亡くなりました。99歳だったので大往生でした。
もうこの数年は心臓は動いていても眠っている時間が長く、私が一時帰国したときに耳元で「ばあああああやあああああああ」と最大限のボリュームで叫んでも起きなかったので、もうずっと棺桶に片足突っ込んでたのだと思います。
20年間くらい、会うたびに「じいや(既に死んでいる)が迎えに来てくれない」と嘆いていたのですが、「ばあや、じいやも今天国で独身エンジョイしてるんだからもう少し待ちなね」と会話していたのが懐かしいです。
鬱になった
そしてそして2021年の秋、私鬱になりました。現在はもう薬を飲んでいません。
一時帰国して実感した私に必要だったもの
今回の一時帰国を終えて、なぜこんなに気持ちが晴れやかなのかなとこの一週間考えてたんですよね。そこで分かったことが3つあります。
私の全ての細胞が癒された
私の実家は田んぼのど真ん中にある、トトロの世界と同じような超ウルトラド田舎なんですね。だから私のベースは田舎者なわけです。
どんなに化粧をバッチリしてお洒落してハイヒールを履いて都会にいそうな女性な雰囲気を出しても、私の細胞の一つ一つは季節の匂いや動物の音を感じ、泥んこ遊びやおたまじゃくしすくいをして出来上がっているわけです。
今回の一時帰国で分かったのは、私はその場所に身を置くだけでただただ癒されたということです。
32年間生きてきて、こんなにカエルを探したり、田んぼの横を流れる水をずっと見たり、畑仕事を一生懸命したことはありません。この2か月間ただただそれが楽しくて、全ての匂い、音、景色、味、触感、五感をフルに使って癒されたなと思います。
自分の時間を持つことの意味を知る
ドイツでは基本的に常に子供たちと一緒の私。子供が生まれてから泊りがけで一人になったことがなかったので、24時間一人という時間がありませんでした。
今回の一時帰国中に一人で東京に3泊4日で旅行に行き、大学時代の友達に会ったり、飲み屋さんに行ったり、命削って遊び倒しました。これがたぶんすごく良かったんだと思います。
自分が数日いなくても子供たちがなんとなるということを実感できましたし、それを実感することで精神的に少し安心したんじゃないかなぁと思いますし、自分の時間を持つことで、私が子供との距離感をイイ感じに保てるということを体感できたのが良かったです。
ドイツに帰ってきてもこれからは定期的にまるっと一人の時間を作るために、遠慮なく義母を召喚しようと思います。
心の深いところで安心した
そしてやはり、家族と過ごす時間の安心感たるや。既に紹介しているように、うちの親はちとクセが強いのです。父は昔鬼軍曹だったので、正直この2か月間喧嘩しないでいられるかすごく心配してたんですよね。
しかし不愉快だったときはすぐにそれを父に伝えることができたので、そんなことにもならず、楽しく過ごすことができました。
なんていうか、幼い頃の私にとって父の存在は恐怖だったわけです。でも人は変わるんですよね。これはうちの父も例外ではなく、祖父と祖母を失ってから父も少しずつ変化したのでしょう。
「とても大変だっただろうに、孫2人連れてきてくれてよく帰ってきてくれたね」
「毎日このわんぱく小僧たちを一人で世話してんだもんな、えらいな、頑張ってるな」
「孫見せてくれてありがとうな。親孝行してくれて嬉しいよ」(標準語に直してます)
と、鬼軍曹からは想像もできないことを何度も言ってくれました。
成田空港まで母と送りに来てくれたのですが、チェックインして荷物を預けた時点で8時45分。ボーディングが9時40分だからもう中に入ったほうがいいなと思ったのですが、
「9時40分ならまだ行かなくていいだろう?入ったらもう出てこれないんだろう?」
とそれはそれは寂しそうに、鬼軍曹の面影はゼロの表情で、悲しそうに言ったのです。そして9時になって別れて中に入り、搭乗口に着いたときに父からLINEが来ました。
ぼらへ
この2ヶ月本当に幸せだった。ありがとう。
慌てて、母に「父ちゃん大丈夫?」とこっそりLINEしましたが、本当に嬉しかったです。
一時帰国することで見える気持ちがある
私は基本的にドイツが好きだし、ドイツ生活に不満はありません。しかしドイツ生活に慣れてきたとはいえど、日本と勝手が違うドイツ生活。
小さな小さなことが少しずつ見えないところで気持ちにのしかかっていたのかもしれません。とくにこの二年間はコロナで今すぐ日本に行けない!というのが精神的に負担になっていたのかも。
今回の一時帰国を通して自分にとって本当に大切なものや、自分が元気になるためにはどうしたらいいのかを見つめ直すことができて、今の私の気持ちはとっても晴れやかです。
最後までお読みいただきありがとうございます♪
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